最初で最後の最愛の人今日も老人は海へと足を運ぶ。田舎の海岸に人は居らず過ぎていった夏を遠く懐かしんでいるように見える。 秋の初めの朝日の中老人は浜辺へゆっくりと歩を進める。 この海岸は砂浜ではなく、小石でできているため老人は足をとられないように右手の杖をうまく使って歩く。そしてたどり着いた岩場に腰掛け朝の静かな海を見つめる。 もう何十年も続けてきた朝の日課。 老人がふと横を見ると、一人の少女がひざをかかえて座っているのに気がついた。 (こんな早い時間にこの場所で人を見るのはめずらしい…。なんと寒そうな格好をしているのだ) 老人は少女の姿に少々驚いた。 秋の朝は夏と違って少し肌寒い、半袖はもちろん少女の様なノースリーブの白いワンピースを着ている人など、いるはずもない。しかも少女の頭には赤いリボンのついた可愛らしい麦わら帽子がのっている。 どう見ても夏の格好である。 (しかしなぜだろう。この少女どこかで見たような…) 老人の胸の奥で何かが訴えてきた、少女の長い黒髪、白いワンピ-ス、麦わら帽子、そのすべてが懐かしいような気がした。 老人が少女に見とれていると、突然少女の瞳から大粒の涙がこぼれた。 「!!」 老人は考えるより先に少女の元へとかけていき、やさしく少女に声をかけた。 「お嬢さん、なんで泣いているんだい?つらいことでもあったのかい?」 少女はびくっと体を震わせ老人を見上げた。不安げな悲しい顔をしてはいたが少女はとても可愛らしい顔をしていた。 少女は優しげな老人を見て安心したのか、小さな声で返事をした。 「とても悲しい恋をしました…」 「悲しい…恋?」 「はい、とてもとても好きだった人と離れて暮らさなければならなくて…。私とその人は離れて暮らすことが辛くて、お互い別々の道へ進むことを決心したんです」 少女はそれだけ言うとまた泣き始めてしまった。 老人は少女の話すしぐさや声の感じに再び懐かしさを覚えた。 いつかどこかでこの声を聞いたような…。 (ああ、そうだ。この少女、あの娘に似ている) 老人の胸をかすめたのは、若いときの悲しい恋だった。 少女に似た娘との楽しくそして儚い恋。 老人は少女を悲しみから少しでも救いたいと思い、少女に自分の話をすることを決めた。 「お嬢さん、少し時間はあるかね?」 問う老人に少女は小さくうなずいた。 「そうかい…。じゃあほんの少しこの老人の話を聞いてくれるかい?」 「おじいさんの?」 「そう、この老いぼれがまだお嬢さんくらいの年の頃の話だよ。私もそれはつらい恋をしてね…」 少女から目を海へと向けた老人は静かに語り始めた。 「あれは私がまだ成人する2年前だったかな?あの頃はまだこの町も今よりもっと田舎で、漁業が盛んに行われていたよ。私の父親も漁業をやっていてね、よく船のことを手伝わされたもんだ。だからかどうかはわからないが私はこの海が大好きだった…」 少女は海を見つめながら老人の話に耳を傾けていた。 老人は昔のことを懐かしく思っているのか、目を細めながら穏やかに話している。 「その日もいつものように父を手伝った後、海を眺めていたら一人の少女がこちらに近づいてくるのが見えた。黒くて長い髪がとても美しくて、海が近いこの町では珍しくとても白い肌をしていたよ。私は彼女に一瞬で心を奪われてしまった。彼女から目を離せなくて固まっていた私に彼女は笑顔で話し掛けてきた」 これが二人の最初の出会いだった。 いつもより太陽がまぶしく、海の色も違って見えたあの日。 水色のワンピースを着た彼女は、海辺にたたずむ少年に引き寄せられるかのように彼の元へと向かっていた。 健康的な褐色の肌、海を見つめる輝く黒い瞳に彼女もまた恋をしていた。 「この町の事を聞いてきた彼女に私は、しどろもどろに説明したよ。心臓はバクバクうるさくてね、顔が熱くなる自分にとても驚いた。それから彼女のことも色々と聞いたよ。この町よりももっと北の方から来たらしいこと、彼女は病気を患っていて空気の澄んだこの町に療養にやってきたこと、そのために日中はあまり外には出られないこと、その全てが私の周りでは聞いたことのないような話だった。それから私たちはしばらく会話を楽しんだ後その日は帰ることにした、どちらからともなく再会を誓い合って…」 「それで…、それでその後どうなったんですか?おじいさん達は再会できたんですか?」 話に聞き入っていた少女が老人に問う。老人は少女を優しく見つめゆっくりとうなずいた。 「あぁ、もちろん会えたよ。こんな小さな町だからね、再び会うことは簡単だったよ」 町のうわさの的となった彼女の住まいはすぐに分かったので、老人はすぐに彼女の家へと足を運んだ。 「彼女の家へはほとんど毎日行っていたな。日中外に出られない彼女のために私は海に落ちている貝や、きれいな石を拾ってよくプレゼントしたものさ。それを見た彼女の笑い顔がとても綺麗で私は彼女の喜ぶことなら何でもやったよ。彼女もお返しに庭の花を摘んでくれたり、その花でしおりを作ってくれていた。そんな毎日を過ごす中で私は夏祭りで彼女に思いを伝えることを決心したんだ」 海岸線にはたくさんの屋台が並び、海はいつもより輝いていたあの日、少年は二人が出会った浜辺で彼女への思いを伝えた。 赤くなった彼女の顔には華やかな笑顔が咲いていた。 「それからはもうずっと幸せだったよ。お互いがお互いを好きでいることは、こんなにも幸せなのかと常に考えていた程さ。成人を迎えて本格的に船の仕事をやるようになった私を、彼女はいつも手伝ってくれた。彼女の作った弁当の味は今でも忘れない。二人で将来のことを夢見たりもした。結婚した後子供は二人ほしいとか、家はあの浜辺が見える場所に作りたいとか、二人の間に笑いが絶えることはなかった」 「素敵…。それでいつ結婚式を挙げたんですか?」 少女はまるで自分がその娘になったような気分で老人に聞いた。 途端、今まで幸せそうだった老人の瞳に影が射した。 老人は、苦しそうに一言一言を紡ぎだした。 「結婚式は挙げられなかったんだ…。結婚する一ヶ月前に彼女の病気は悪化してね…、あっさりと逝ってしまったよ」 老人の瞳にはうっすらと涙がたまっていた。 彼女と出会って二年目の夏、彼女は二十年という短い生涯を閉じた。 「元々体が弱かったのもあったが、その中でも一番弱かった心臓にガタがきたらしい。最後に彼女は静かに笑ってこう言ったよ『あなたに会えて幸せでした。私にとってのあなたは最初で最後の最愛の人、生まれてきてよかった…、出会えてよかった…。私は海に帰ります……』彼女が死んだ後、彼女の骨は海に返した。私は彼女の死を受け入れるのにとても苦労したよ…。それこそ何年もかかった。そして、それを受け入れると同時に私はこの海と一生ともに生きてゆこうと誓った。彼女の眠るこの海と…」 老人は静かに語り終わった。そして少女に優しく語りかけた。 「こんな暗い話は嫌だったかな?すまないね、年を取るとどうも湿っぽくなっていかん」 少女は首を横に振り、泣いたままの瞳で笑って老人を見た。 「そんなことありません。聞けて良かった…」 「そうかい、そう言ってくれると嬉しいよ。お嬢さんは特別彼女に似ていたから、私もつい懐かしくてたくさん喋ってしまった。懐かしいな、その声。彼女はその声で私の名を何度も呼んでくれたんだ…。あの頃は本当に幸せだった」 老人の瞳は再び涙でいっぱいになった。 そんな老人を見つめて少女が口を開く。 「ありがとう、夏雪さん。あなたのその優しい瞳が私とても好きだった…」 老人は名を呼んだ少女を驚いて見つめた。 少女はあの夏の日のまま、優しく微笑んで老人の手を握った。 「私もあなたに会えて幸せでした。毎日が楽しくて、うれしくて、恋しくて…。先にいなくなってしまったことをずっとずっと謝りたくて、やっと今日あなたに会えた。こんなに長い間一人にしてしまってごめんなさい。どんなに謝っても足りないくらい…」 老人は少女の手を握り返し、彼女の言葉に聞き入った。 目の前にいる恋人をもう忘れないために、再びくる別れのときのために。 そして老人は上着のポケットから一つの箱を取り出した。 少女が死んでから何十年もの間、肌身離さず持っていたもの。 老人はそっと箱をあけ、少女に見せる。 「これを…、ずっと君に渡したくて今まで持っていたんだ。渡す前に君はいなくなったけど、これは君が持っていてくれなければ意味がないんだ。だって君は私の『最初で最後の最愛の人』だから…」 老人が少女に渡したのは、あの頃のまま輝きつづけている結婚指輪だった。 end |